,ちょうさの聖地2
(松里庵定七)


松里庵定七 (2005年5月9日)
 
写真の建物の左上に「松」「里」と書かれた看板が見えますか?
この建物が
松里庵(しょうりあん)です。
金毘羅大芝居の元の場所(現在の文化会館)のすぐ西裏手の古い山越道沿いにあります。

数年前まで旅館・民宿でしたが、今は廃業しています。
もともと、日柳燕石(くさなぎえんせき)の身内であった半助さんが営業していた料理屋で、その縁あってか、燕石とか幕末の志士が、ここでよく謀議していたらしい。
小部屋の下に地下室があったり、床(とこ)の下には抜け穴が掘られたりしているらしい。
これは、現在住んでいるMさん(観音寺のMさんとは別人)からも聞いたことがあるよ。
・・・・・Mさん、勝手にお宅のアップごめんなさい。ここは一つ子供が同級生ということで・・・

(日柳燕石)榎井旗岡に生まれ六条に住む
       やくざの親分でありながら漢詩を作るくらい教養も豊かであった
       勤皇派として高杉晋作などと親交があり、最後は柏崎で戦死した奇人変人

あの
高木定七(たかぎさだひち)縫師が、明治30年前後に琴平から観音寺に移ってからは、「松里庵」という屋号で縫師家業をしてたことは、怪しいワールド住民にとってはあまりに有名なことであろう。

何らかの関係がないと、なんぼなんでも同じ屋号で商売は出来んと思うけど、何の関係があったかは全くの謎なのである。



松里庵定七 2 (2005年5月10日)
 
某地区で使われていた昼提灯の内部の写真です。
いうなれば「銘」みたいなもんでしょうか?
現在、某氏が所有し調査・研究しているところを、違う某氏が撮影した写真をいただきました。

     「讃州(讃岐:今の香川県) 琴平 金山寺町 松里庵」
     「定七」  「愛媛縣」

不思議やなー?
「金山寺町 松里庵」といえば、前の記事のとおり、町内では有名な料理屋のはず・・・
なんで刺繍屋さんがこの屋号を?

廃藩置県でゴチャゴチャ県が合併したり分割したりしてた時代に、明治6年から明治21年までこの辺りは「愛媛縣」やったので、この昼提灯が作られたのはこの期間ということは判るわな。
料理屋は幕末から営業しよったのに、まさか同じ町内会で同じ屋号を名乗って違う商売したとは、とてもじゃないけど考えられんやろ。

う〜ん????
料理屋さんが多角経営で仲介していたのか?
もともと「松里庵」の一族か従業員であった定七さんのアルバイトなのか?

まあ何にしても、芸者のお姐さんはようけおったし、すぐ隣が芝居小屋やし、着物なんかの金糸や色糸の刺繍業は、金山寺町には必要不可欠な生業で、職人もようけおったことは確かやろな。

これ以上は、みなさん、勝手に想像してクダサイマセ


松里庵定七 3 (2005年5月11日)
 
上の写真は全部、拙ホームページ内にアップしている、作風から松里庵制作と推測される琴平町内の古〜い作品です

旧町内では、上の「金山寺」「高薮」の他にも、地元の人から聞くところによると「阿波町」「旭町」「南新町」の古いのも松里庵
榎井でも、上の「六条」「横瀬」の他にも、「旗岡」の先代黒獅子の掛蒲団も、記憶にあるあの作風は間違いなく松里庵

琴平の昔のはほとんどが松里庵のやったんやなー!
そらそーやろな、町内に上手な縫師さんがおるのに、そこに注文せなんだら不自然じゃわなぁ
こんなことからも、琴平のちょうさは、他所から中古買うてきたんでなしに、地元で作ったんでないんかなー?って推測できんかなぁ・・

みんながこんなんを小さい頃から見て育ったからか、
こんぴら人がチョーサの衣装を評価する基準は、やっぱり松里庵の龍と虎!

inserted by FC2 system